寿永2年 (1183年) の頃、源氏との戦いに敗れた平家一門に連なる公達、姫君が丹波路へ逃げるなかで、落人狩に捕えられ、奥山深い沢で悲運の最期を遂げたのを伝え聞いた里人達が、碑を建て弔ったのが始まりとされています。今では7体のお地蔵さんが祀られており、春秋の2回の大祭には行者の方々の大護摩焚きが行われ、首から上の願い事が叶うとされ合格祈願のご参拝が多いです。