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観るの宝箱

赤井 (荻野) 直正 ~ 赤井 悪右衛門 ~

赤井 (荻野) 直正  ~ 赤井 悪右衛門 ~
赤井 (荻野) 直正  ~ 赤井 悪右衛門 ~

【 丹波市観光100選 】 
  歴史上の偉人部門選定

 
戦国時代の天文二十三年(1554) 新たに黒井城主となった荻野直正(赤井悪右衛門)は、その勢威を丹波一円に広げると共に黒井城の大改修を行い、雄大な戦国の城を築き上げました。
 

天正三年(1575)の明智光秀の丹波攻めに最後まで抵抗したのは、黒井城主の荻野直正(赤井悪右衛門)でした。 しかしながら、天正六年直正は病気で他界し、翌年の天正七年八月に黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりを告げました。


戦国時代の天文二十三年(1554) 新たに黒井城主となった荻野直正(赤井悪右衛門)は、その勢威を丹波一円に広げると共に黒井城の大改修を行い、雄大な戦国の城を築き上げました。
 

天正三年(1575)の明智光秀の丹波攻めに最後まで抵抗したのは、黒井城主の荻野直正(赤井悪右衛門)でした。 しかしながら、天正六年直正は病気で他界し、翌年の天正七年八月に黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりを告げました。





                         「丹波の赤鬼」と称された歴戦の猛将


   

織田信長の精鋭部隊である明智光秀軍を破ったことから、戦国の勇将として称えられる 赤井(荻野)直正。
丹波氷上郡を中心に勢力を誇った赤井氏の出身である。 叔父である荻野秋清を宴の席上で刺殺。 そのまま、黒井城を乗っ取った。 通称の「悪右衛門(悪は勇猛さを示した)は、この事件がきっかけともいわれる。
1557年(弘治3)、兄・赤井家清が丹波の覇権を争った香良合戦での傷がもとで死去。 まだ幼い甥の忠家が赤井家を継ぐと、その後見人として赤井一族を実質的に主導した。
武勇に優れ、丹波国一の実力者であった内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取るなど、隣国にもその名を轟かせ、「丹波の赤鬼」として恐れられた。
地元では直正の武勇と遺徳を偲び、毎年秋に「黒井城まつり」が催されている。





 織田信長が認めた戦国の智将

戦国時代、織田信長の重心として活躍した明智光秀。
その半生は謎に包まれた人物として知られる。逆臣のイメージが付きまとうが、領地では全盛を敷いたとされ、京都府の亀岡市や福知山市など、今でも光秀を慕う地域が多い。
信長家臣団の中では、教養豊かな知識人で智将と評され、当時の織田軍団で最も鉄砲の運用に長けていたともいわれる。
黒井城攻めで1度は赤井直正に敗れた光秀だったが、2度目の丹波攻めでは一気に黒井城を攻めずに、周りの城から落としていく作戦を取った。
さらに、二大勢力であった赤井氏と波多野氏を分断するため、中間地点にあたる郡境に金山城を築城。空いての戦意を奪う作戦で知略を駆使し、苦難の末に丹波を平定した。
信長に「日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と、その戦功を激賞された。
その後、突如として信長に反旗を翻し、「本能寺の変」を起こすことになった。






悲劇のヒロインとしてしられる細川ガラシャ。

明智光秀の娘・玉として生まれ、父の盟友である細川幽斎の嫡男、忠興に嫁いだ。

玉の運命を変えた大事件が本能寺の変。
「逆臣の娘」とされ、京丹後市味土野の山中に幽閉された。キリスト教によって心を癒され洗礼名のガラシャと名乗る様になる。
壮絶な最期を遂げるまで波乱万丈の人生を歩んだ。









「丹波の赤鬼」 と 明智勢 激突の地、 丹波攻め合戦図



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赤井(荻野)直正活躍の地、黒井城跡の情報はこちら




  • 住所
    〒 兵庫県丹波市春日町黒井
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